INTERVIEW先輩就農者の声
川内村栽培農作物 椎茸、キクラゲ、ヒラタケ、マイタケ、ナメコ など
ひたむきな親の背中を
追いかけて
福島県川内村でキノコを栽培する「遠藤きのこ園」。椎茸を中心に、キクラゲ、ヒラタケ、マイタケ、ナメコなどを育てています。現在代表を務めるのは二代目の遠藤雄夫さん(46)です。川内村役場職員だった遠藤さんは震災後、帰還してキノコ栽培を再開した両親の姿に影響を受けて家業を継ぐことを決意。遠藤さんの心を動かしたもの、そしてこれからの展望を伺いました。
営農再開に迷いのなかった両親
遠藤家がキノコ栽培を始めたのはいつからですか?
うちの両親が始めたので、今から50年ぐらい前ですね。それより前は葉タバコ栽培、養蚕、稲作をやって、和牛を数頭飼っていました。当時はこの辺りでキノコ栽培をしている人がいなかったので、うちの親父が茨城県の農家さんのところで修行して技術を学んできたそうです。
最初は丸太を1mぐらいの長さに切り出した「原木」に菌を植えつけて育てる「原木栽培」でスタートしたんですが、今から25年ぐらい前に「菌床栽培」に切り替えました。「菌床」というのは木を粉状に粉砕した「おが粉」に米ぬかなどの栄養源を混ぜてブロック状に固めたもののことで、菌床に菌を植えつけて発生させるのが「菌床栽培」です。
東日本大震災と福島第一原発の事故で、遠藤きのこ園さんはどんな状況になったんでしょうか?
事故後、この地域は「緊急時避難準備区域」に指定されました。うちは郡山に避難しましたが、避難後も両親はキノコの様子を見るためにときどき帰ってましたね。本格的に帰村したのは震災から半年ぐらい経ったころです。
ハウスの中に菌床を置いたまま避難したので、椎茸を取って全部捨てて、菌床も全部廃棄。椎茸が放射性物質を含んでいる可能性もありましたので、廃棄しかなかったんです。営農再開はそれからでした。
当時、私自身は川内村役場の職員だったんです。震災で役場機能は郡山市に移りました。震災の1ヶ月後、私は役場から福島県庁に出向になったので福島市に移りました。1年間県庁で働いて、川内村役場が村に戻るタイミングで一緒に帰ってきました。
両親が農業を再開することに対して、遠藤さんは賛成だったんですか?
反対でしたね。放射性物質がどれくらい降ったのかわからないし、当時は線量のレベルが20〜30年は下がらないとも聞いてました。特にキノコ類は放射性物質を吸い込みやすいという性質があるので、風評被害もあるだろうなと思って。キノコを作ることはできても経営はできないだろうと思っていました。
でも両親の意志は揺るがなかったですね。キノコ栽培しかやったことがない人たちなんで、キノコ栽培をやってなかったら自分が自分じゃないような感じだったんじゃないでしょうか。両親の姿を見てると、単純にキノコ栽培が好きなんだなーって思います。特に親父なんかそうで、いまだに自分で栽培したキノコが出ると「良いのが出たな〜」って嬉しそうにしてます。
そして2016年には遠藤さんが役場をやめて家業を継ぐことに。最初は営農再開に反対していたのが、自分もやろうと思ったのはなぜですか?
第一に、本当は震災前から家を継ごうかなっていう気持ちが少しあったからです。第二に、震災後は役場で復興の仕事をがむしゃらにやったんですが、それで疲れてしまったと言うか。震災後に担当した仕事が今までの役場職員の仕事の範疇を遥かに超えていたんです。例えば村に植物工場を作ったり、企業を誘致したり、工業団地を作ったり。震災がなければ川内村では絶対にやらないような大きな仕事でした。急にそういう仕事を始めて、わからないことだらけで結構キツかったですね。そして当時、両親が65歳ぐらいになってやっぱり仕事が大変になってきた様子を見ていましたので。私も今後は役場の中で責任ある立場になったりするような世代だったので、出世をして辞められなくなるより、早めに家業に入った方がいいかなと思ったんです。
取材日:9月17日
取材・文・写真:成影沙紀